忙しい両親の手伝いをするのは当たり前だった。
学校の宿題でもなければ、お小遣い稼ぎでもない。
しかし、お手伝いから得た経験は生きる知恵を与えてくれた。
お使いは助け合い
子供の頃、私ばかりお使いにやらされた。
いつもテレビばかり見ていたのだから仕方ない。
兄は本を読み、常に勉強し部屋を片付ける子供だった。
にしても、女なのだからそう言うことはやるもんだと言う母の古風な考えに、反発を覚えた。
それがきっかけで、我が子への自分なりの教育が始まった様に思う。
子供達には
「家族ってもんは助け合って生活する者だし、男とか女とか歳がどうのこうのではない」
と教えた。
誰の利益
「レタスを近所の八百屋で買って来て頂戴」
そう母に頼まれ、小学校3年の私は八百屋に行った。
着くと野菜の前に陣取って座るパートのおばちゃんに「レタスください」と言って、渡された物を買って帰った。
母に渡すと
「何でこんな古い、美味しくないレタスを買って来たの」
と言って怒り出した。
私はちゃんと、レタスを買った。
なのに、怒られた。
その頃の私には、美味しいレタスとそうじゃないレタスの見分けはつかなかった。
夕方、お使いにくる子供達はお店側からしたら都合の良いお客なのだと母は私に言った。
自分で選ぶ
お使いは続いた。何度も。
「違う。こんな風じゃないやつ買って来れなかったの?」
母の納得する買い物はできなかった。
母は説明が出来ない。
どうダメなのか?なぜこれじゃないのか?の問いに、答えを持っていないのだ。
無論、お店の人になんと言えばいいのか誰に聞けばいいのかと言うと
「自分で考えなさい」
と決まって怒られた。
私はお店で、店員が他のお客を接客中に自分でパッと選んで取るとか「下の方のください」とか言って条件を提示する事を覚えた。
母に怒られない様にするためにどう対処すべきか、毎日必死だったのを覚えている。
そのご機嫌次第で、見たいTVが見られなくなるからだ。
相手が望むもの
お手伝いは相手がこうして欲しいと言う要望に応える練習だ。
要求される事のプラスアルファを読みとく良い機会だとも思う。
トイレ掃除の時、ペーパーが切れそうだとか食器洗いで洗剤が切れそうだとかを覚えておいて
お使いの時一緒に買うなどと言う配慮ができる様になる。
どっちが切れても買いに行くのは私で、1回で済ませた方が私に都合が良かっただけなのだが。
この感覚は、お手伝いという訓練の賜物だ。
今では、あの特訓を受けていない兄を可哀想に思う。
なぜなら、私の贈り物選びには定評があり兄には低評価がつきまとっているからだ。
まとめ
- お手伝いは助け合い
- 経済の勉強。誰が得して損を引き受けるのか。
- 気遣い、気配り、臨機応変の練習。
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